走行日:2009.08.12(水)※お盆

お天気:快晴

乗車:DAHON Vitesse P16





日本三景のひとつ『松島』は、電車で仙台から2~30分くらいのキョリにあります。

ここに来るのは高校1年生の学年旅行以来なので、18年ぶり・・・になるのかな。






是非、のんびり読んでやって下さい(´ー`)












●松島駅へ
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『松島』の観光スポット最寄の駅は、『松島海岸駅』(仙石線)があります。






しかし、僕の旅は盛岡までなので、東北本線に乗る必要があります。

仙台市と宮城県第2の都市・港町石巻市を結ぶ仙石線は電車の本数も豊富ですが、

小牛田よりも先の一ノ関などに行ける東北本線は1時間に1本程度。




松島・瑞巌寺の観光は2時間or3時間など、予め時間を区切っておきましょう。





















●松島・五大堂(重要文化財)
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波に洗われ、えぐれた小島の上にお堂が立っていて、そこに朱色の橋でお参り出来る様になっています。


近くには漁船もぷかぷか浮かんでる飾りッ気の無さ^^;

意表を突かれるかも知れませんが、ここが日本三景の『松島』でございます。

松島駅からでもチャリでわずか3~4分程度で到着出来る、お気軽観光スポットでございます・・・。


















いえいえ、いわゆる松島は、この五大堂の奥の方に広がっている奇石ゴロゴロの多島海の方^^

この港からたくさん出ている観光船で、風光明媚な景色を楽しむ事が出来ます。

四季、いつ来ても美麗ですが、特に雪の時期に来るとリアル水墨画の世界を楽しめるとかで、

中世の時代に中国にもその名を轟かせていたそうです。
























五大堂は今から1200年前の807年、時の征夷大将軍・坂上田村麻呂が建立した毘沙門天のお堂と伝わり、

その800年後に伊達政宗によって再建され、それから瑞巌寺の所属となっています。



坂上田村麻呂は、平安時代の武人で菅原道真と同時代の人。

この後向かう平泉の少し北よりに胆沢城、さらにここから180kmほど北上した盛岡市の郊外にも

志波城を築いており、岩手県民にとっては馴染みの深い中世人の1人と言えるでしょう。

彼の娘は桓武天皇の后となり、親王を産んでいたと記憶しています。



















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お堂に向かう橋は『すかし橋』と呼ばれ、本来の踏み板の間に大きく隙間が開き、

2mほど下の海面が見える様になっています。

これは、お堂に入る前に気を引き締める為のしかけだとか。



















外国人の子供の観光客が非常に多いです。

英語圏の旅行者みたい。



・・・いや、旅行者じゃなくて、日本で暮らしている人たちかな。

話している英語の内容は判るのに、彼らの話題に登場する豪族の名前が僕には全く判らないからです。



中学生か高校生くらいの子たちに見えるんだが、日本に住んでそれなりに研究しないと、

あんな地方豪族っぽい名前は出てこないだろう・・・。



詳しいんだな。

















●瑞巌寺(ずいがんじ)
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やはり今から1200年ほど前の828年、慈覚大師円仁(794~864)によって開かれた古刹です。






円仁は栃木県出身の人。

9歳で仏門に入り、比叡山延暦寺の最澄の弟子となり、835年には遣唐使に随伴して大陸にも渡っています。


彼が唐での9年半の見聞を記した『入唐求法巡礼行記』は元駐日大使・ライシャワー(歴史学者でもある)
によって世界に紹介され、玄奘和尚の『大唐西域記』やマルコポーロの『東方見聞録』と並ぶ旅行記として
注目されている・・・そうです。

しかもこの人、山形の『山寺』(立石寺)や、この後足を運ぶ平泉の『毛越寺』、『中尊寺』も建てた人。

スゴイ。




・・・でも、彼の活躍は中央がもっぱらで、この様な辺境の地で寺社を建てている筈が無いという説もあり、

正確な検証にはまだまだ時間がかかるのかも知れません。

それもまたロマンがあって、いいですね^^





















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松島ではウナギ漁が盛ん。

ウナギ達の霊を慰める為、地元の漁師達が寄進して建てられた鰻塚(大正13年)。
























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ウナギ塚の背後にあるミニ莫高窟(ばっこうくつ)みたいなのは・・・

何だろう?もらった資料には書かれていません。

洞窟の中に、お地蔵さんや墓石みたいなものが刻まれていました。随分と古いものに見えましたが・・・





















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内門を通った先の岩屋の中。

赤い字で刻まれた凄絶さを感じる供養塔・・・三陸海嘯。






岩手の子はみんな小学校の頃に津波の恐ろしさを聞きますが、今、改めて調べてみました。







三陸大津波は、岩手県三陸海岸を中心に甚大な被害をもたらした大津波。

1896(明治29)年と1933(昭和8)年に来襲。

石碑に『海嘯』とかなり古い表記で書かれていますので、これは明治の大津波の方でしょう。




明治の大津波を引き起こした地震の発生は明治29年6月15日午後7時32分30秒。

震源は岩手県釜石市東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)。

マグニチュードは推定8.5!

でも、プレートがゆっくりずれる地震だった為に震度はせいぜい2~3程度。

ほとんどの人は、潮位が変化するとすら考えなかったでしょう。





しかし。

間もなく襲来した津波の最大波高は大船渡市で22.4m、宮古市で18.9m、山田町で10.5m、

場所によっては38.2mの津波が襲い掛かり、海岸一帯は、まさに一瞬で壊滅しました。





1896年の岩手県の総人口を調べてみると、694,867人(現代のほぼ半分)。

津波による岩手県の死者は1万8158名。

計算すると、県の総人口の2.6%に相当する方が、水に飲まれてしまった事になります。





この供養塔は、その様な犠牲者と遺された方を慮って刻まれたもの。

きっと、血の様な涙を流しながら刻んだのでしょう。

津波の恐ろしさが身に染みます。



































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臥竜梅。

伊達政宗が朝鮮から持ち帰ったもので、その形からそう呼ばれているそうです。





















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本堂(国宝)。




この中に、安土桃山様式の煌びやかな儀装を施した、伊達家の住まいがあります。

会議などをする大広間には、客や部下が入る下座より正面に当主が座す上座があり、

さらにその左手により一段高い超上座(名前忘れた><。)があります。



その超上座は、順路から手を突っ込めば触れる位置にあり、『正宗もこの板触ったんだろうな』なんて

思いながら感触を確かめる事が出来ます。





各部屋の襖は一族の部屋は遠く西方の物語を描いた金張りの物であったり、御典医の部屋は水墨画であったり

現代人の我々にも判りやすいテーマがあって、非常に面白いものです。


























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建物の中は写せないが、写せる外の造りだってこんなにスゴイ。





















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諦めきれない。外からパチリ^^;

とりあえず、『金色』だけは見えるでしょうか。























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帰り道、正門のトコロにマスコット猫?の『シロ』がいます(^▽^)





















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港のチャリに向かうと・・・あれ、どっかで見覚えのある船。




あ、これ、18年前にみんなと一緒に乗った、当時最新鋭の『はやぶさ』号だ。

白から赤に塗り替えられた船体も、なかなかカッコイイ^^






















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福浦島。





有料橋で渡れる島。周囲1.3kmくらいを散策出来るらしい。

誰かと来てれば渡ったと思うけど、今日は先を急ごう。


















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次は奥州・平泉を巡ります。